『刺繍』島崎藤村 著
テキスタイル文学館
明治になって広がった手編みは当時“新しい手仕事”で、おせんさんが10代~20代を過ごしたのは、日本で初めての編み物の流行期と思われます。また近代的な手芸教育の構築が進められ、刺繍科を設置する学校が誕生したのも明治期。藤村は、女性らしさに加え、“今どきの若い女性”という人物設定のために手芸を描き込んだのかもしれません。
おせんがこの部屋で菫の刺繍なぞを造ろうとしては、花の型のある紙を切地(きれぢ)に宛行(あてが)ったりその上から白粉(おしろい)を塗ったりして置いて、それに添うて薄紫色のすが糸を運んでいた光景(さま)が、唯涙脆(なみだもろ)かったような人だけに、余計可哀そうに思われて来た。
放してしまった大切な人、かけがえのない暮らし。その名残がどこかにありはしないかと、大塚さんは家の中を探ります――別れる際、彼女のものが一切残らぬよう、着物も寝間着も布団も、きれいさっぱり生家に送りつけたにもかかわらず…。
そうしてようやく「刺繍」を発見しました。それは彼女が刺したであろう1枚。おせんさんの口びるを連想させる、紅い薔薇の刺繍作品でした。
この記事でご紹介した本
『刺繍』島崎藤村 著 青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000158/card844.html
◆著書プロフィール
島崎藤村【しまざき・とうそん】
現・岐阜県中津川市の馬籠(まごめ)に生まれる。「若菜集」などを出版し浪漫主義詩人として活躍したのち小説に転じ、「破戒」「春」等の作品を発表。生家などをモデルとして旧家の没落を描写した「家」は、日本の自然主義文学の到達点とされている。
vol.69 2019・春号より