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2024/11/19
今年の夏の暑さは予想をこえ、太陽は容赦なく日本列島を焦がしている。今回取り上げるウズベキスタンを巡ったのは2007年の晩夏、日中は40℃を超えていたオアシスの旅を思い出すにはうってつけである。 友人のアメリカ人染織研究家から、行きましょうと声をかけられた私は、二つ返事でウズベキスタンの首都タシケント行きの航空券を手配した。同行者はアメリカ各地から集まったテキスタイル研究者や染織家と有能な現地ガイドの5名、3週間の旅であった。
文&写真提供 ひろいのぶこさん
この国は中央アジアと呼ばれる5つの国のうちの一つである。できれば世界地図を開いてほしい。シルクロードの国と聞けばイメージしやすいのではないだろうか。
人口は3500万ほど、タシケントは中央アジア最大のオアシス都市である。紀元前から東西交易がさかんで、砂漠やオアシスを人と駱駝(ラクダ)が行き交った。かつてモンゴル帝国が侵入し、帝政ロシアとソ連に支配されてきたが、1991年に独立したまだ若い国。しかしそこには悠久の歴史が流れている。
ウズベキスタンの染織をながめるうえで忘れてならないのは、遊牧と羊毛、広大な乾燥地帯の綿花栽培、この地がシルクロードであることを実感する養蚕など、多様な染織素材に恵まれていることである。複数の文化が刺激しあったことで、豊かで華やかな染織がこの地に花開いた。
日本を発って、友人らが待つタシケントのホテルに到着し、翌朝は車2台で東のフェルガナ盆地へ向かう。夏の光が強く鋭くきらきらしているのは極度に乾燥しているからなのか。途中の峠で車を停め、山頂に雪が輝く天山山脈をしばし眺める。
フェルガナの周辺では今なお養蚕が行われている。はるかな昔、中国から西方へ嫁いだ高貴な女性が蚕の種(卵)を隠し持ってきたという伝説が西域やこの辺りににも残っている。つやのある美しい絹糸は、各国が喉から手が出るほど欲しがった産物であった。
まず訪ねたのは、植物染料で絣を染める工房である。特徴的なウズベキスタンのタテ絣が織られていたが、色調はやや淡い。この国では植物染めが長らく途絶えていたので、復活へむけての実験段階のようであった。
特徴的な大柄のタテ絣は「アドラス」と呼ばれており、絹のタテ糸をくくって染め、ヨコ糸は綿糸の平織である。なかにはタテ縞もあるが、男性も女性も富裕層はこのアドラスと呼ぶ小幅の布を長い上着(チャパン)にして着用してきた。内陸なので寒暖差が大きく、裏地を付け、綿入れに刺し子をほどこすことも多い。
男性用は一見和服かと見まがうような直線仕立てで、女性用はウエストを細くし、腰周りはゆたりと仕立てることもあった。
2003年に出かけた中国最西端の町のカシュガルで購入した朱子織りの絹絣「アトラス」は、ホータンという町で織ったものと聞いた。それらの柄には共通性が見られ、組織は違う。
絣文様は男性用の方が女性のものより大きく、色数は多いほど高価。整経時にタテ糸が折り返すところに1本の横線が染め残るのだが、これを縫製の段階でどう配置するのかもなかなか面白い。
例えば英国オックスフォード大学アシュモリアン・ミュージアムに展示されていた絣のコートは、イギリスの探検家であり外交官でもあるロバート・バークレー・ショウ(1839年~1879年)が中央アジアの旅で愛用したものである。制作地は不明だが、中央アジアという広大な地域がヨーロッパから見ると、冒険心を刺激される魅力的な土地であり、それを象徴するのがこの目を惹く柄とつやつや光る絹絣だと言っていいだろう。
つぎに訪ねた製糸工場では、湯気の中で女性たちがひたすら繭から糸を引いていて、日本人の私には親しみのある光景だ。その中の女性の眉は一つながりに描かれている。とても古い化粧法に違いない。
兵庫県神戸市生まれ。京都市立芸術大学 美術学部 工芸科 卒業後、同大学美術専攻科染織専攻修了。長年にわたり母校で教職を執り、2017年に名誉教授となる。繊維を用いた作品を制作しながら、世界各地の染織の現状等を調査・研究し、工芸資料を収集。作品は京都市美術館ほかハンガリー、フランス、アメリカなど海外の美術館にも収蔵されている。
ておりや通信『te』vol.86
ひろいのぶこ エッセイ『糸を旅する』より